ブリン・フォーブスとその家族の物語
2019年の母の日前日に公開された、ブリン・フォーブスとその家族について書かれた記事の翻訳記事です。
いつか全訳しようと思っていたので、無事やり終えることができて安心しています。
バックスからの良い契約をもらえてよかったと思います。
Spurs’ forbes receives huge assist from mother
Tom Orsborn | May 11, 2019
このシーズン(2018-2019シーズン)のスパーズでは、試合前の選手たちの議論は白熱することが多かった。
フレンドリーマナーとして、クインシー・ポンデクスターが52歳になるボクシングの伝説マイク・タイソンと1ラウンド打ちきることができるかどうか、というものから、カボチャやサツマイモのパイをホリデーデザートとして提供すべきかどうかまで、徹底的に話し合う。
シーズンの終盤、スパーズの選手たちのなかで、自分が子どもの頃のバスケットボールヒーローが誰だったのかの話になった。当然のこととして、誰よりもマイケル・ジョーダンがもっとも多くの票を集めた。
けれども一人だけ、個人的な方向に向かった選手がいた。彼はその話題に明確な意見を述べなかった。
“My Mom’s my hero,”
トレーニングルームに向かうために、ガードのブリン・フォーブスは立ち上がってそう言った。
母の日、ブリンにはその女性に感謝してもしきれないほどの多くの理由があった。その一つ、スー・フォーブス (Sue Forbes) の自己犠牲の精神と多くの励ましがなければ、彼はNBAの舞台にいなかったであろうと信じているからだ。
「彼女は自分の最大のサポーターなんだ、」ブリンは言う。「彼女は自分に可能性を見出してくれて、そしてそうやって育ててくれた。ほんとうに多くのタフな愛を与えながら育ててくれた。子供の頃はもちろん、彼女は自分の人生でもっとも重要な人物なんだ。彼女がどれだけ素晴らしいか表現する言葉が見つからない。」
彼女が今までやってきたことは、片親ながらミシガン州イーストランシングでブリンを立派に育て上げたことだけではない。今現在、ブリン自身が片親として二児を育てていて、67歳になるスーから多くを学び、彼女の助けを得ながらカーター(5歳)とレオ(2歳)を育てている。
「こういったことは彼女なしでは絶対にできないと思う。彼女は自分のために、24時間365日共にいてくれるんだ。」
彼女はブリンから賞賛を受けているあいだ、困ったような、どこか恥ずかしがっているように見えた。彼女にとって、それは良い親であるための一環として、息子のNBAでプレーするという夢の達成を助け、そして孫を育てているにすぎない。
「私は自分のことをヒーローだなんて考えたことはありません。けれど、親であるあなたが(子どもの)人生における目標、ゴール、指針をしっかりと定めたのなら、それは子どもが今後どうなっていくかの予言のようなものなのです。」
彼女は言う。
「私もより良い子育てをするために、自分で到達可能な高い目標を持つようにしています。」
彼女が42歳の時、1993年7月3日にブリンは生まれた。5年後、ブリンの父親と離婚したのち、彼女はブリンと他の子供たち---Tristan Warmels とErin Warmels---を一人で育て始めた。
「子育ては、ほんとうに冒険でした。」
彼女は言う。
「いつだって目を離さずにいられたことはありません。」
生活をやりくりするため、彼女は様々な仕事についた。主な収入源である税理士を除いて、こどもの大学進学資金のためパートタイムでキリスト教青年会 (YMCA) で働いたこともあった。その目は常に未来を見つめていて、「教育と行動すること」を目的とし、イーストランシングで彼女が共同所有しているスタジオで「Mindful Movement」と「Physical Therapy」のトレーニングを始めたりもした。
「多分、1日4時間くらいしか寝ていなかったと思います。」
彼女は言う。
長い時間働くことだけが、彼女にとって唯一の自己犠牲ではない。
「私は贅沢な旅行なんか行ったことがないんです、」彼女は言う。「新しい車を買うことを考えたことはないです。引越しを考えたこともない。私たちはずっと同じ家に住んでいるんです、彼らが子供の時からね。彼らが学校にいくのに十分なお金が必要だから。たまにそのことを思い出してこう言います、“全く私は何をやってたの! ” って。」
YMCAからNBAへ
YMCAにいた日々が、ブリンにバスケットボールに惚れ込ませた。
「YMCAににいたブリンより少し年上の子らは、いつもボール遊びをしていました、幼少期からずっと。ブリンは彼らを見て育ちました。」
スーは言った。
彼が少し大きくなったときも、その年上の少年らがウォーミングアップでシュートを打つのを眺めているだけだった。
最終学年になってプレーするのに充分なほど成長すると、チャールズ・トーマスというプロミネント・ユース・バスケットボールコーチから目を掛けられた。彼の息子たち、チャールズとカールは1990年代にNBAでプレーしていた。
「あなたはすぐに息子をJunior Proに加入させることを考えるようになりますよ。」
チャールズコーチはスーにそう言って、ミッドウエストのユースチームを紹介した。
「最初にそう言われたとき、「Junior Proってなに?それってどういう意味なの?」って聞き返しました。」
スーは続ける。
「それは私にとって学びの日々でした。私はバスケットボールプレイヤーでないので。でもチャールズのような人たちが知識を与えてくれて、理解できるようになっていきました。」
そのうちブリンがバスケットボールでキャリアを築きたいと考える時がきて、彼女がそれに気づいたときに、スーはそれを実現させるためにどんな苦労も厭わなかった。それはブリンに、自分を疑う人間の言うことなどかまうな、と伝えることも含まれていた。
「私は彼の夢を信じているし、彼に向かってそんな話はさせません、」彼女は言う。
「人々は彼にこう言い続けるでしょうね、お前は小さすぎる、アグレッシブさが足りない、とか。けれど私も言いつづける、そんなの聞かなくていい、あなた以上に、彼らはあなたのことなんか知らないんだってね。」
スーはイーストランシングからデトロイトまでの90分の道のりを、ブリンがAAUの練習に参加するために数え切れないほど何回も運転した。練習はしばしば19~22時まで続くこともあって、つまりそれは、彼らは夜中になるまで家に帰れなかったということだ。
「彼女は僕らをデトロイトに、インディアナに、国中のいろんなところに車で連れて行ってくれたんだ。自分をプレイさせる、ただそれだけのために。」ブリンは言う。
(チームメイトで)将来シカゴ・ブルズに入団するデンゼル・ヴァレンタインがランシング セクストン高校を、1試合平均19得点しながら2つのClass Bチャンピオンシップに導いたこともあって、フォーブスはあまり大きなリクルートを受けることはなかった。トム・イゾー率いる、イーストランシングにあるミシガン州立大学からのオファーよりも、フォーブスはクリーブランド州立大学からの奨学金を選んだ。彼は母に多くの教育費を払わせたくなかった。
しかし2年後、フォーブスはミシガン州立大学に転入する。この決断は彼の家族に関係するところが大きい。クリーブランドでの2年目のシーズン前、当時フォーブスのガールフレンドだったRaelynn Taylorがカーターを産んだ。加えて彼は少しでも自分の妹のところに居たかった理由があった。彼女はライム病(人獣共通感染症の一つ)を患い闘病生活を余儀なくされていて、その病気は2016年10月、彼女の命を奪うことになった。それはフォーブスがまだスパーズに入団する前のことだった。
「だいぶ元気になったよ、」ブリンは2016年3月、Detroit Free Press (デトロイトとミシガンの日刊紙)でそう言っていた。「息子の人生の中で、最初の年にあまり一緒にいてあげられなかった。自分にとって本当に苦しみもがいた時期だった。妹が病気になり、長いあいだ自分の家族から離れていた。多くの変化や出来事があって、自分にとってほんとうに難しい時期だった。」
San Antonioへ
ミシガン州立大学での2シーズン、2015年にはFinal Fourに進出、シニアシーズンには平均14.4点でほぼ50%のスリーポイントを記録したのちに、ブリンはスパーズと契約し、スーを大喜びさせた。
「親として、自分の息子が入るチームを注意深く選べるとしたら、スパーズ以外ありえないでしょうね。」スーは言った。
ルーキーの年、フォーブスは2回目の父親になった。Taylorがレオを出産したのだ。しかし二人は破局し、その後2017年に子どもの親権をめぐって裁判所に申請をした。その間に、スーはサンアントニオに移って、彼女の孫を育てる手助けをした。
長きにわたる争いの後、ミシガンにある地方裁判所 (Ingham Country Circuit)は、フォーブスの完全親権の判決を言い渡し、Taylorと合意した。Lansing State Journalによれば、この判決はまた、フォーブスがTaylorに養育費の代わりに$50,000支払うこと、そして彼女が、テキサスにいるカーターとレオと60日間共にいても良い権利を言い渡した(少し訳に自信がないです、すいません)。
この判決はまた、Taylorの旅費と宿泊費も支払うようブリンに命じていた。
スーのサンアントニオに引っ越すという決断は、イースト ランシングと深い結びつきがあった彼女にとって簡単なものでなかった。
「30年ミシガンで過ごした自分にとって、それは少し難しいことでした。」
スーは言う。
「スタジオを売りに出し、トレーニングイベントは閉めました。持っていたものを知り合いにあげて、家も貸家状態にしました。本当にタフでしたけれど、それが正しい判断だったかなんて、疑問に思ったことはありません。
次世代の子ども達がいるということ、それが本当に素晴らしいことなんです。それこそが私たちが世界に影響を与え続ける、たったひとつの可能性だと信じています。」
イースト・ランシングを離れることは彼女にとって本当に辛いことだった。しかしそれはもう過去のことで、今ではブリンが子どもたちの教育や生活をどうしていくか決断するのに、彼女の存在は大変な助けになっている。
「若い可能性のかたまりをまた見ることになって、本当にワクワクしています。」スーは言う。「彼らは夢であふれています。カーターなんか私を見てこう言いましたよ、「僕がテレビに出られるようになったとき、おばあちゃんまだ生きていられる?」って。本当に笑いました。しかも、あの子の中ではすでに5歳でテレビに出ることが決定しているらしいのです。「ベストを尽くすよ」って伝えておきましたけれどね。」
「そしてまた、ブリンにした時と同じように彼らの夢を聞いて、それを応援し続けています。本当に充実した毎日なんです。」
Mom’s advice
税務関係と健康促進系の仕事についた経験があるスーは、ブリンにとってアドバイザーであり相談役だった。けれども、2人の間で頻繁に話題になっていたのは ”育児” に関することだった。
「25歳という彼の年齢で、そのような重要なことを学ぼうとするのは本当に心優しい証だと思います。本当に難しいことなんです。」スーは言う。
そんなスーが自分の息子に受け継ごうとした、とても重要なレッスンがある。それは彼女が自分の父親から学んだことだった。
「私の父は口癖のようにこう言っていました、「いいかい、これからの人生、君は間違いをおかす事もあるだろう。けれどもそれは、明日の朝起きたときには、前の日よりも良い仕事をしなくてはいけないということだ。昨日の間違をもう二度とおかしてはいけない。」」
「私はブリンに、このことを何度も何度も伝えてきました。”あなたの仕事は、より良くなるために努力し続ける事なのだ” と。あなた方はきっと、ブリンのバスケットボールの中にそれを見つけることができるでしょうし、私は彼の育児の中にそれを見つけることができるんです。」
スパーズのガードであるパティ・ミルズは、チームでブリンのメンター役でもあるが、スーから息子へ、そしてそのまた息子たちへ、確かな愛情が注がれていることをいつも目の当たりにするという。
「彼女に会うと、いつも最高の笑顔で接してくれるんです。」パティは言う。「その表情はまるで、世界にはなにも問題がないという気持ちにさせてくれます。本当に優しい女性です。彼女とブリン、そして子どもたちとよくバーベキューをしますが、本当にユニークな面々で、その時間を過ごせることに本当に幸せを感じます。」
ブリンはまた、スパーズのロードゲームでは母親と息子たちを試合前のロッカールームまで連れて行っている。そこで家族に「また後で」と伝えた後は、ブリンは家に帰ることを心配せずに、自分の仕事のことだけに集中できる。
「ロードゲームはいつも調子が良いんだ。何をやってもうまく行くことが多いよ。」
ブリンはまた、父親とも良い関係を続けていて、それでスーとの関係が悪くなるようなこともまったくない。
「自分の人生は、彼女がいてくれたことが全てなんだ。」ブリンは言う。「彼女は最高なんだ。彼女のような人が親でいてくれるなら、これからも素晴らしい人生になること間違いなしだよ。」