SpursLRのブログ

サンアントニオスパーズやNBAの事を書いています。

トニー・パーカーはスパーズにとってどのような存在であったか

地元紙であるSAENの、マイク・フィンガー記者の記事の和訳です。

短い内容ながら、トニー・パーカーがスパーズにとってどのような存在であったかが分かる内容になっています。



箇条書きに近い文章で、かつ少し難しい箇所が多いため、自分なりの解釈でまとめています。

元記事を読んでこうではないか、等のご指摘などあれば、私の勉強にもなるのでコメントなどに是非お願いします。

 ---------------------------------------------------------------------------------------

Parker’s pride drove Spurs until the end

  By Mike Finger | July 6, 2018 |

 SPURS NATION From the San Antonio Express-News

 

f:id:SpursLR:20190115095642j:plain

Photo: Kin Man Hui, Staff / San Antonio Express-News

 

それは真冬の、パッとしない内容ながら確かスパーズが勝利したゲームの後の、いつも行われるメディアセッションでの出来事だった。

 

それは何年も前のことだったが、つい何ヶ月か前のことのようにも思える。

 

トニー・パーカーAT&Tセンターのホームのロッカールームに立ち、メディアに向かっていつもの役割を果たしていた。自分へ向けられる多くの賞賛をかわし、チームメイトやスパーズのシステムを賞賛する。

質問の途中で記者が、ヨーロッパ出身選手の中で4番目に多いスコアラーである、というパーカーの実績を何気なく引き合いに出すと、彼はいつものように微笑み、丁寧に同意しながら“そうだよ、間違いない。” と返事をかえした。

 

けれど彼はロッカーを出ると、ふたたび微笑んで、先ほど質問した記者をいたずらでもするかのように小突き、レコードブックをチェックするよう彼に進言した。

“僕は3番目だよ。” パーカーは言った。

 

もちろん彼が正しく、これにはなんの不思議もない。サンアントニオにいる17年間、パーカーはNBAヒストリーの中で、スパーズの中で、そしてサンアントニオという街で、自分が今どんな立ち位置にいるのか、いつも正確に把握していた。彼はいつもこれらを深く気にかけていて、しかしそれは決して劣等感や自信のなさから来るものではなく、彼がいつもグレートな存在を目指したが故のことであって、スパーズを離れた今、彼はまさしくその通りに皆に記憶されるだろう。

 

パーカーは誰よりもプライドが高い男でありながら自分のエゴを抑えることができる人間だった。何度も何度もそれを続けながら、3番手の役割を積極的にプレイし続けた。心の底では、ほんの少しだけファンが自分よりもダンカンとジノビリのことを愛していると気づいていたが、失意にはしなかった。自分こそが、ダンカンとジノビリをさらに良い存在にしていたことを知っていたからだ。 

 

 

 

 

 

 

彼のような気弱で高慢な性格は、スパーズの一員としてやっていくには少し難しい−−−訛りの問題もあるが−−−けれど彼の場合、与えられた状況にこの性格は辻褄が合った。

 

 

まだ10代のルーキーだった頃、彼はグレッグ・ポポヴィッチに今すぐにチームのベテランを受け入れ、彼らを引き受ける責任を負うことをお願いされた。もちろんこれは、意志薄弱で過敏な少年だった彼を困惑させた。

 

パーカーがスパーズに加わった時、GMのR.C. ビュフォードは、“我々は今現在、転換期にある。” と言っていた。スパーズは、デビッド・ロビンソンとショーン・エリオット、エイブリー・ジョンソンの時代から、ダンカンとこれから集まるサポートメンバーたちのチームにスムーズに移行できるよう、ギャップを埋めようとしていた。今後スパーズがどのようなチームになるのか、確信している者はいなかった。

 

結果として、その役割はパーカーにとても合致していた。

良い意味で伝統に従わず、謙虚で、自分に疑いようのない自信があった。長年に渡ってポポヴィッチからこれほど多くの叱責を受けた選手は、パーカーを除いて他にいないだろう。

彼がNBAファイナルでパーカーをベンチに下げスピーディ・クラクストンを起用した時には、パーカーはゲイリー・ペイトンジェイソン・キッドと自分がトレードされるという噂を頻繁に聞く羽目になった。

 

しかしこれらのことがパーカーの心を押しつぶすということは決してなかった。

もしこの出来事が彼の心を押しつぶしたとしたら、それは彼が他の選手 −−−自分以外のポイントガードや他のプレイヤー−−− が自分よりも優れていると信じることになる。パーカーがそう考えたことは一度もなかった。

 

パーカーの自信の価値 −−−実際のところその高慢さ−−− がスパーズの過去3回のチャンピオンシップを獲得するために、どれほど大事だったのかを語るのは簡単ではない。

ダンカンは、その類い稀なる素晴らしさが為に、まれに自信を喪失しがちになる時があった。

ジノビリは、その華麗な情熱でチームの弾みとなったが、大雑把なプレイが続くことがあった。

 

パーカーの自信も、ポポヴィッチからパーカーに与えられるすべての指示も、揺るぐことがなく、容赦がなかった。どんな時でも、才能ある新人がまるで初めてハリウッドに降り立つ時のような心持ちで入団してきても、それは“スパーズ流” を示す良い機会となって、皆が同じ立場であることを理解させ、気を引き締めさせた。

 

パーカーは2007年のNBAファイナルでは支配的なプレイをして、数年の間、チームのベストプレイヤーだった。パーカーがNBAで最速の選手だという称号を過去のものにしても、ポポヴィッチはコート上の彼を愛し続けた。彼以上にスパーズのシステムを知る人間はいなかった。

 

 

そしてもちろん、彼はレコードブックの中での自分の位置を知っている。このことがどれだけ彼にとって重要なことか、試合の勝利の方が大事だが、チャンピオンシップを勝ち抜く方が大事だが、常にパーカーがドライブをする原動力であり続けた。

 

彼は長年、NBAで20シーズンプレイしたいと言っていて、スパーズは彼に戻ってきて欲しかったものの、まだプレイするためにはシャーロットの方が良いシチュエーションだということをパーカーが理解し、選んだことは賢明な判断だろう。スパーズとの関係性が悪くなったわけではない。全くの反対で、スパーズは彼の選択を支持している。

 

 

 スパーズはいつか彼が帰ってくるのを迎え入れるはずだ。サンアントニオはいつだって彼の場所だ。−−−10代でやってきてレジェンドとして離れ、野心を捨てることなく名声を犠牲にし、3番目であることに気づいても失意にはしていない、彼のための場所なのだ。

 

 ---------------------------------------------------------------------------------------